vanillawafers melt a Bleep

うたかたの日々を固定しようとする試み

セカイ系から日常系:さらにその先へ【定義編】

 

“  All those moments will be lost in time, like tears in rain.” Blade Runner 

 

 

アニメ、マンガ、ラノベなどのサブカルチャーの歴史から演繹するなり、帰納するなりして「さらにその先」が提示できればいいな、と……。

 

セカイ系から日常系を経由して、さらにその向こう側へと至る道の通奏低音にはふたつあって。ひとつは「ギャグ」であり、もうひとつは「恋愛」なんだ。ギャグの背景には「シミュレーショニズム」があって、「恋愛」がそれを駆動させる燃料であり、エンジンになっている……それは一体どういうことなのか? 言葉の定義とか歴史とかなんやかや……という観点からみていこうと思う。

 

まずは言葉の定義から始めようかな。

 

セカイ系

これはWikipediaに詳しいので、それを読んでもらえればOKだね。

この記事はとても良く纏まっているので、是非読んで欲しい。

(日本のWikipediaはサブカルに強いからね)

ちょいと引用してみると……

 

“主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(きみとぼく)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと”

 

以上が定義。

もう少し詳しく引用すると……

 

“「世界の危機」とは全世界あるいは宇宙規模の最終戦争や、異星人による地球侵攻などを指し、「具体的な中間項を挟むことなく」とは国家や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されることなく、主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれることを指す”

 

要するに……

 

セカイ系とは「自意識過剰な主人公が、世界や社会のイメージをもてないまま思弁的かつ直感的に〈世界の果て〉とつながってしまうような想像力」で成立している作品である”

 

自意識が世界に直結している物語と言えるんじゃないかな。

 

 

日常系

Wikipediaでは「空気系」と記載されていたね。

またもや引用してみると……

 

“美少女キャラクターのたわいもない会話や日常生活を延々と描くことを主眼とした作品群”

 

これ以上の説明はいらないほど簡潔な描写が素晴らしい。

 

作品としては言わずもがなの『けいおん!』だよね。女子高生がただひたすらキャッキャウフフしている姿をみて和むという、視聴者の好々爺的状況がある訳で(笑)

 

その他には『僕は友達が少ない』や今度アニメ化される『お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ』とか。『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』もかな? 

 

登場人物たちがたわいもない会話を延々し続けていく。そこには登場人物間の関係性が破綻することもなければ、「世界の危機」的状況も訪れない。終わりなき日常の固定化……。

 

(『電波女と青春男』は違うね。この作品は日常系みたいなんだけど、実は違ったんだ。このことについては別に論じたいと思う)

 

 

シミュレーショニズム:サンプリング/カットアップ/リミックス

さて。セカイ系から日常系へと至る歴史を考えてみようと思うのだけれど……その前に、重要な概念を提示したい。

 

「シミュレーショニズム」だ。

 

以下、椹木野衣『増補シミュレーショニズム』より「引用」するね。

 

サンプリング:

“サンプリングは、既製品としてのディスク・ミュージックの一部を略奪的に流用し、それを新たなコンテキストの中に接合することによって原意味を脱構築する”

“たとえば「引用」が、結局は他者をいかにして自己に調和させるか、ひと綴りの自己表現の小宇宙に首尾よく配置させるか、という問題だったようにしては「サンプリング」は引用しない”

“それはあくまで略奪的な戦略なのであり、「引用」がそれをなす当事者の表現的自我を不可避的に肥大させるのに対して、サンプリングを敢行した当事者の自我は抹消され、無名性の中に霧散する”

“さらにいえば、引用する者が富めるものから「収奪」するものを、サンプリングする者は「没収」しているのである”

 

カットアップ:

“サンプリングが引用でないと同様に、カットアップはコラージュではない”

“コラージュがいかに異質な要素を同一平面上に共存させようとしているにしても、結局のところそれは、箱庭的な予定調和を目指す表現者の趣味性を具体化する一方法といった感は免れない”

“これに対してカットアップは、むしろ当の表現者を裏切るべくして機能する。そこには切り刻むことによる偶然性が乱暴に導入され、この偶然性が選択者の意志の必然に従った配列とあいまみえて進行してゆく”

“(略)ジャパニーズ・シュルレアリズムのごとき、空想を具体化する一手法としてのコラージュなどではなく、むしろそうした無意識的な空想の凡庸さを破壊し、そのような虚構の弱き「超現実」を、より強度を有した理不尽なる現実にさらすことにある”

 

リミックス:

“リミックスは、サンプリングされ、カットアップされた分裂症空間を、微小な差異を連鎖的に形成する反復へとさらすことによって欲望の無限連続体を導き出す”

“この意味においてリミックスは、サンプリングが引用と、カットアップがコラージュと分離されたように、その原型に対する距離の特殊な形成において、パロディと厳密に峻別されるべきものである”

“パロディとは、要約によってなされる、当の対象の本質直観に基づいている”

“しかし、リミックスは決して要約しない。それはひたすら反復する。レヴェル・ダウンしようがレヴェル・アップしようがかまいはしない。そこで行われるのは盲目的なまでのひたすらの反復である”

“(略)ベスト・テイクが原理的に存在しない以上、それを巡ってその周囲に同心円状に配置される「パロディ」もまた存在しない。リミックスにおいては、全ては等価である”

 

引用がかなり長くなっちゃったけどね。

 

事物を略奪し、事物が持っていた意味を抹消し、ひたすら反復して変形しながら増殖する……これはギャグマンガの基本にリンクしていることに気がついたの。

 

物語を希薄にして、登場人物の行動や思考から意味を剥奪し、その奇矯な行動をひたすら反復する……赤塚不二夫の『天才バカボン』や『レッツラゴン』あるいは山上たつひこの『がきデカ』『イボグリくん』にみられる破壊的破滅的ギャグの系譜。

(イボグリくんはギャグマンガの極北だ!シミュレーショニズムの果てのポストモダンギャグマンガと言っていいと思う。マジで凄いよ!)

 

その破壊的破滅的ギャグに「オタク趣味」が加わって誕生したのが鴨川つばめマカロニほうれん荘』なんだ。

 

 

次回は『マカロニほうれん荘』から始まるサブカルの歴史についてお話しできればいいな……と思ってます。