『氷菓』の映像表現
また、アニメの話で恐縮だけど(笑)
第5話で「氷菓事件」は決着した、と。
古典部シリーズ1巻目のアニメ化だったんだね。
僕は原作を読んでないのでアニメを見た感想を少々。
折木奉太郎は第1話から「推論」しかしてない。
他の登場人物も、その「推論」だけで良しとしていて。
「推論」した結果をもって「答え」としてる。
その「答え」が「真実」であるかどうかは問わない。
これってミステリとしては新しいんじゃないかな、って思っていたの。推理合戦をして、それが全て推論で、真実に到達しない……こりゃあアンチミステリだよなぁって。
ところが……5話を見てビックリ。その推論は不完全で、推論をやり直して真実に到達するという……これじゃ普通のミステリじゃん(笑)都合が良すぎるほどの。
個人的には、それと気づくことがないライトなアンチミステリってのを期待してたんだけど……そうではなかったね(笑)その辺が不満だった(笑)
以上、枕でした(笑)
氷菓独特の映像表現
アニメ表現としては凄まじい領域に到達していて。
(あ、猛烈にネタバレしてます)
例えば、5話冒頭のシーン。
雨が止んでから雲間から光が射すところ。
これには度肝を抜かれた。
これだけのクオリティの映像をTV放映ベースで見せられるとはね…。
『氷菓』の映像表現は、別にアニメじゃなくてもいい訳で。
どちらかというと実写向きだと思う。
推理/推論部分は光学合成やCGを使えばいいし。
過去の出来事は再現フィルム調でもいい。
でも……これは僕の推測でしかないけど……。
おそらく氷菓のスタッフは「アニメでなければならない意味」と「アニメでなければできない表現」を志向したんじゃないかな。アニメで表現する意義ってものを相当考えたのだと思う。
そうでなければ
1話の「古典部部室のえるの立体的表現」
3話の「時計のハート型の振り子」
そして
5話の冒頭
といった表現をしないだろうね。
アニメならではの表現と演出……現実とは異なるアニメだけが持つ現実感……それを実現するだけの高い作画レベル……そういったものを追求しようとしたのではないか、と思うんだ。
その「アニメならではの表現と演出」とは、氷菓独特の映像表現とは、何か。それは、情景と登場人物の心理のシンクロ:登場人物の心理心情を情景で説明する、ということにある。
(推理/推論シーンの会話を補完するための映像:例えば2話の図書館から本を借りる時のCGとか、4話の生徒と学校間の争いの描写とか:というのは、別に問題にしない。漫画でよく見る表現だから、特に珍しくもない)
1話の「古典部部室のえるの立体的表現」
折木奉太郎が古典部部室に初めて入室するシーン。誰もいないはずの部室に千反田えるがいた……その窓際にいる千反田えるにズームしていく……奉太郎の視点で……。この描写が3DCGで表現されているのには驚いた。
これは二人の出会いを劇的にする意図と奉太郎の驚きを表現している(と思う)。いないはずの教室に思わず見蕩れてしまうほどの美貌の女の子がいた……という、ね。
3話の「時計のハート型の振り子」
これは面白い。映像ならではの表現だね。
千反田えるに喫茶店に呼び出された奉太郎。えるがなかなか用件を話さないので「告白でもするのか?」と聞いたら「そうかもしれません」「え?」……というわけで男子高校生らしく奉太郎がドキドキしちゃうのね。マジで告白するの?なんて奉太郎のモノローグは一切ない。その心情を「ハート型の振り子」という映像のみで表現してる。もちろん喫茶店の時計は普通の丸い振り子なんだけど。この表現はうまいなぁと感心した。
5話の冒頭
驚愕のアニメ表現。まさに極北。そのクオリティには顎が外れた(笑)
雨の中、話ながら歩いている福部里志と奉太郎。
以下長くなるけど再現してみる。
「奉太郎の推理通りなら、僕たちのカンヤ祭は少なくともひとりの高校生活の代償に成り立っていることになるね……でも、驚いたよ」
「何がだ」
「奉太郎が謎解きをしようとしたこと自体にさ」
「俺も……驚いた……」
「神高入学以来、奉太郎はいくつか謎解きをしてきたよね。なんでそんな面倒なことをやった理由は分かってる。千反田さんのためだろ?」
「千反田のせいだ」
「それでもいい。だけど今日は違った。ひくこともできたはずなんだ、奉太郎は。今日、謎を解く責任は、僕らのあいだで4等分されていた。分からないと言って逃げても、誰も何も言わなかったと思うんだよ。なのに、なんでトイレに籠ってまで回答を見つけようとしたんだい? あれも千反田さんのためだったの?」
ここで雨が止み、雲間から光が覗く。
「……いいかげん灰色にも飽きたからな。千反田ときたら、エネルギー効率が悪いことこの上ない。部長職、文集作り、試験そして過去の謎解き。よく疲れないもんだ。お前も伊原もな。無駄の多いやり方してるよ、お前らは」
「ま、そうかもね」
「でもなぁ……隣の芝生は青く見えるもんだ。お前らを見てるとたまに落ち着かなくなる。俺は落ち着きたい。……だが……それでも俺は何も面白いとは思えない」
ここで、烏が飛び立つ。
田園の全景。太陽からの光が放射状に筋になって。
奉太郎にスポットライトが当たったように。里志は影になっている。
この対比に注意。
「……その……なんだ……推理でもして一枚噛みたかったのさ。お前らのやり方にな……何か言えよ」
「奉太郎は……奉太郎は薔薇色が羨ましかったのかい?」
「かもな」
走り出す二人。太陽は二人を照らしている。
つまり奉太郎はここで初めて本音を語ったわけで。
告白と言ってもいいかもしれない。
自分の内なる気持ちを語ったことがおそらくなかったであろう奉太郎……その気持ちにシンクロするように雨が上がり、太陽の光が雲間から覗くのだ。天候が回復するとともに、奉太郎の心も晴れ上がったことだろう。
この情景と心情のシンクロナイズは、わずか3分程度のシーンなんだけど、アニメならではの表現だと思うね。しかし、これを表現するためには猛烈な時間と手間と作画レベルと色彩設計を必要とする。TVの放映を前提であるアニメ番組が行うような表現ではない。しかし、それを京アニは実現してしまった訳だ。本当に凄い。
おそらく、この『氷菓』で実現しているアニメ技術と表現方法は、TVの『涼宮ハルヒの憂鬱:エンドレスエイト』と映画『涼宮ハルヒの消失』を経て完成されたものだと思う。推測に過ぎないけどね。
この劇場用作品並み、いやそれ以上のクオリティをどこまで継続できるのか。『氷菓』は全24話だと聞いている。最後までこのクオリティを保つことができれば、アニメは新しい次元に突入する……かもしれない。僕は楽しみでならないよ。
補足:5話冒頭のシーンはCGを使えば、実写でも表現できると思う。通常のドラマでは、こういった表現はしないだろうね。時間も予算もないし、視聴者にとっては分かりにくい表現になるかもしれないし。労多くして功少なし、ってことになるはず。だから監督はやりたがるかもしれないけど、プロデューサーはOKしないと思うな。映画ではできるね。予算が潤沢なら。TVアニメでやるのは、マジで凄いよ。