「あの夏で待ってる」に関する断片的な思慮
『あの夏で待ってる』ってアニメのこと。
これは『おねがいティーチャー』のリメイクだったんだなぁ、と。
でも僕は『おねがいティーチャー』を見ていないので、その作品のことを除外して、いろいろ思ったことを書いていく。
物語の構造
1話のモノローグが最終話にリンクすること。主人公の相手役が主人公の元を離れて、再び戻ってくること。主人公たちの存在が彼らの母校の伝説となること(あの夏ではそれが映画という作品になっていたが)そういう構造がとらドラに似ていると感じた。
物語構造が一度ループして上昇するよう(円環というよりは螺旋)になっているのは、おそらく制作者が「時間」と「記憶」を意識しているからだと思う。すなわち「あの夏」を体験した記憶と関係性の永続をこの物語に与えたかったのではないか。
時間と記憶
時間と記憶の永続性というのは、この物語の支柱になっていることに気がついた。自らの体験を残しておくため、伝えるために、そのイメージを子々孫々に遺伝させる…このイメージに従いヒロインは地球を訪れ、主人公に出会う…これもまたループしている訳で。
ヒロインの祖先が残した地球のイメージ…それは地球人が星間航法を実現させて銀河連盟に所属し たときに、ヒロインの種族(の子孫)がそのイメージに気づく…我が祖先は遥か古代に地球人と接 触していたのだ…という壮大な計画だったのかも知れない。
記憶…わたしの存在、わたしの体験、わたしと仲間たちの関係…それらを永続的に保管し、次代に受け継ぐこと。それが、このアニメのキャッチコピー「その夏の思い出が、僕達の永遠になる」の意味だろう。
記憶の永続性
記憶の永続性もしくは忘却との徹底交戦:これが長井龍雪と田中将賀のコンビの作品のテーマではないか。…とらドラもあの花もあの夏も…「忘れるな。思い出せ」と。
とらドラ:1話と最終話のループ…円環を超えた螺旋構造は、周回しながらも前進している未来へのベクトルを想起させる。伝説…卒業後も後輩達に語り継がれる…体験の永続的な共有は、その体験を時間から切り離し永遠の存在となる。これらは「あの夏」も同様の構造を有している。
あの花:亡くなったヒロインの出現…忘却していた/しようとしていた記憶の想起とバラバラになっていた関係の修復。彼らの記憶と関係は、より強固に定着する。
記憶の補完/郷愁の連鎖
失われゆく記憶をテクノロジーで補完する…8㎜カメラという失われた技術での撮影…音声もなく不鮮明な映像…それは現在のHD画質のビデオの高画質からは得られない「郷愁の連鎖」を高い頻度で惹起する。
郷愁の連鎖…失われつつある記憶をノスタルジックに補強する…記憶の連続的な再生…画質でも音質でもなく、不鮮明さ、すなわちノイズがトリガーとなる訳だ。そのノイズは自らの記憶の「不鮮明さ」とリンクする。
メッセージ
実はこの作品のメッセージは最初と最後のモノローグに現れている。
人が死んだら、天国にいけるという。
でも僕はそうは思わない。
死んだ人間はきっと誰かの心へ旅たつのだ。
思い出となって生き続けるのだ。
父と母がそうだったように僕らの心に宿るのだ。
けれど、それもやがて消えていく。
だから人は何かを残したいと願うのだ。
忘れてしまわないように。忘れないように。
僕はカメラを回し続ける。
フィルムに焼き付けたあの夏を。
その続きを。
すなわち「記憶の永続性への指向」と「忘却への徹底抗戦」だ。
体験すること。
体験したことを記憶しておくこと。
記憶したことを忘却しないこと。
『あの夏を待ってる』という作品は、そういった人の願いを具現化しようとしていたのかもしれない。